ジョン万次郎
ジョン万次郎、日本語を忘れて、英語を忘れて。
今日は「言葉は使わなければ忘れてしまう」という実例として、ジョン万次郎(中浜万次郎)の人生を紹介します。
私の同級生にMくんという人がいます。Mくんは小学生までアメリカで育ったので、日本に帰国した当初は日本語より英語の方が楽でした。ところが日本の学校で生活するうちに、今度は逆に英語を忘れてしまったのです。これは珍しい話ではありませんが、そのことを歴史の中で如実に示した人物がいます。それは、我らが日本人の最高の通訳、ジョン万次郎でした。
アメリカでの生活と英語習得
万次郎は土佐の漁師の子として生まれ、天保12年(1841年)14歳のとき漁に出て遭難し、漂流の末にアメリカの捕鯨船に救われます。仲間はハワイで下船しましたが、万次郎だけはホイットニー船長に引き取られ、アメリカで教育を受けることになりました。
彼は必死に英語を覚え、再び船に乗るようになったときは、今度はリーダー的な役割を果たすまでになります。当時、異国で日本人が船員をまとめることなど考えられないことでした。しかしその一方で、彼は徐々に日本語を忘れていったのです。
帰国と通訳としての活躍
嘉永5年(1852年)、25歳の万次郎はハワイに寄り帰国するチャンスを得ます。上海に向かう商船に仲間の日本人と乗り込み、琉球(沖縄)沖合で用意していた小舟に乗り込み、闇に紛れて上陸します。役人に捕まることは織り込み済みでした。日本語をかなり忘れていた彼は、日本人の仲間に通訳を頼みます。
当時、日本で英語を話せる人材はほとんどおらず、万次郎の能力は突出していました。そのため幕府に登用され、ペリー来航の際には通訳候補として江戸に呼ばれます。他の通訳の妬みから公式通訳にはなれませんでしたが、誰もがその実力を認めていました。
その後、彼は『英米対話捷径』という英会話教材を執筆し、多くの俊才に英語を教えました。勝海舟とともに咸臨丸で渡米した際も通訳として活躍し、英語での交渉を難なくこなしています。明治維新後も各地で英語教育に従事し、東京の開成学校(現在の東京大学)でも英語教授を務めました。
晩年の衰え
しかし、時代が進むにつれて日本は文書翻訳や学術研究を重視するようになり、会話主体の万次郎の英語力は以前ほど求められなくなります。さらに病気で第一線を退いたこともあり、英語を使う機会は減少しました。
晩年には英文の手紙にスペルの誤りが多く、固有名詞の大文字さえ忘れていたといわれます。かつて流暢に話していた英語も、長く使わなかったために衰え、土佐でアメリカ時代の旧友と再会した際には満足に会話できなかったという記録が残っています。
結論
ジョン万次郎の人生は、言葉は使わなければ忘れてしまうという真実を示しています。若い頃、彼は日本一の英語話者として通訳や教育に大きく貢献しましたが、晩年にはその流暢さを失いました。とはいえ、日本人として初めて実用的な英語を身につけ、幕末の開国期に大きな役割を果たした功績は、今なお高く評価されています。
今日は最後に英語の諺を紹介します。Use it, or lose it. 使うか失うか。
