英語の筆記体と日本語の草書

英語の筆記体(cursive writing)と日本語の草書(そうしょ)。一見まったく異なる文字体系に属する二つの書き方ですが、その根底には共通した願いがあります。それは「速く、そして美しく書きたい」という人間の欲望から生まれています。

アルファベットの筆記体は、文字同士を手をつなぐように流れる線でつなげ、時間を節約するために生まれました。商人は手紙や契約書を素早く書き、学生はノートを効率的にまとめることができました。筆記体の曲線は、まるで英語の世界に小さな「舞踏会」を開いたかのように、文字たちが優雅に踊っています。

一方、日本語の草書はさらに大胆です。漢字の画を極限まで省略し、まるで風が墨を走らせたかのように線が生まれます。普通の人が見れば「ミミズの跡」にしか見えないこともありますが、そこには漢字の魂が凝縮されている。草書は、実用よりもむしろ芸術としての意味が強まり、書道の最高峰として位置づけられてきました。

興味深いのは、両者の「読みにくさ」への扱いの違いです。英語の筆記体は、教育の中で「誰でも読める」ことを前提にした実用文字でした。しかし現代では、活字体(print)が主流となり、若い世代は「筆記体が書けない読めない」という現象が起きています。現にアメリカでは学校教育で教えなくなりました。その分が、コンピューター入力の時間に置き換わっています。(最近、少し復活の兆しがあるそうです。) 一方、草書は古来から「普通の人には読めない」ことが前提でした。だからこそ、解読できる人に敬意が集まり、芸術性が高まったともいえるでしょう。

筆記体と草書。どちらも「速さ」と「美」を求める人間の心から生まれたものでありながら、文化によってたどった道は異なります。英語圏では筆記体は「署名やノスタルジー」として生き残っています。 iPhone の産みの親である Steve Jobs は大学のカリグラフィー(書道)の時間に手書きの美しい文字に魅了され、コンピューターの文字に活かそうと思いました。そして、日本では草書は、今も「芸術」として書道の中で息づいています。書道の展覧会に行った読めないながらも、その流麗な字体だけは鑑賞できます。

結局のところ、この二つの書き方は、文字が単なる記号以上のものであることを教えてくれます。文字は情報を伝える道具であると同時に、人間の心のリズム、文化の美意識を映し出す芸術作品でもあるのです。ペンを走らせるとき、あるいは筆を揮うとき、私たちは同じ問いに向き合っています。――「どうすれば、この線をもっと速く、もっと美しく書けるだろうか?」手書きを見直してみるのもいいものです。